編集者紹介(藤田隆志ヒストリー)

 

昭和51年2月13日


	
	










津嶋神社のある香川県三豊市三野町大見久保谷自治会に生まれる。小さい頃から大きなおでこと大きな耳を武器に愛想を振りまいていたようだ(笑)。自分の中にある一番古い記憶は4歳か5歳の頃、高瀬町の喫茶店で道路脇の溝におちてしまったこと。今でも両親が手を差し伸べてくれている光景がまぶたに焼き付いている。
	
	
昭和58年 小学校入学
	
	
	
	
	
	





小学校に入ると、勉強も嫌いではなかったが、スポーツにハマった。当時学校で流行っていたのはドッジボール。休み時間の度に友達みんなで校庭に走って行って、汗だく、泥だらけになるまで本当によく遊んできた。そして個人的な趣味は漫画、特にキン肉マンにはどっぷりハマっていった。キン肉マンには一大ブームを巻き起こした【キン消し】と呼ばれる消しゴムがあった。僕は店に行って、親が買ってくれるまで動かないという幼稚な作戦で数百個のキン消しをゲットした。(僕の両親の世代の人は一度はこういう経験があるかもしれない)
	


	
	
	
	
	
	
	
	
	
	

やんちゃな少年期だったが横道にそれずに成長出来たのは先生との出会いがあったからだ。それは5年、6年と担任してくれた横山先生。本当に厳しい先生だった。どんなテストでも80点以上取らなければ強烈なお仕置きがあった。でもテストの時に自主勉強を10ページしてきたら、80点取らなくてもOKという逃げ道も作ってくれていた。後に母から聞いた話だが、先生は担任になったその日に保護者にこう言っていたらしい。「私は子供に手を出すこともあります。しかしウチの子には絶対に手を出さないでという方がいらっしゃれば今申し出ておいて下さい」と。そのときは誰も名乗り出なかったらしい。本当に厳しい先生だったが、大好きな先生だった。理科が専門で学校近くの山へ行き、いろんな昆虫を取ってくれたり、水泳の県大会に出場すると、それはそれは大声で応援してくれた。厳しい以上に子供に対する愛情を感じさせてくれる先生だったのだ。今、僕の長女が僕の母校である大見小学校に通っている。この先生のような、素敵な先生との出会いが数多くあることを望んでいる。
	
	

昭和63年 中学入学
	


	
	
	※中学時代の写真がほとんどなく、修学旅行のふざけている写真しかカットです。

	
	



三野津中学に入学。僕の入学した学校では部活動に必ず入らなければいけない規則だったのでテニス部に入部した。当時からサッカーが好きだったため、サッカー部があれば間違いなく入部していたが、残念ながら三野津中学にはなかった。そんなわけでしょうがなくテニス部に入ったのだが、やってみれば本当に楽しかった。テニス自体も楽しかったが、そこで得ることが出来た【友達】の存在は大きいものだった。そのときのダブルスの相方は今でも交流があり、僕の大切な友人の一人である。
中学校生活はどこにでもいる普通の少年だったと思うが、一度先生にこっぴどく怒られたことがあった。それは僕が書道の宿題をマジックで書いて提出した時。そりゃ怒られる。今でも反省している(そんなことすること自体普通の少年ではなかったのかもしれない・・・。十鳥先生、ごめんなさい)。
自分でいうのもなんだが、勉強は出来ていた方だと思う。特に英語に関しては3年間トップ!!(この立場が高校に入ると全く逆転しまうことになるのだが・・・)
	
	
	


平成3年 高校入学   部活にあけくれた高校時代
	
	
	
	
	
	
	
	
	
	
	






	
	平成3年、香川県立観音寺第一高等学校入学。なんと実家からは17kmとかなりの距離があったのだが、毎日自転車通学をした。この高校でやっと念願のサッカー部に入ることが出来た!たぶんサッカー部がなければ別の高校を選んでいたと思う。高校生活というのはとにかく部活動中心だった。僕らの時代のサッカー部は弱小チームで大会は全く成績を残すことが出来なかったけど、弱いなりにも一生懸命練習した。【左足でうまくボールを蹴れるようになるためには左手を上手に使うことが出来るようになれば上達が早い】という嘘かホントか分からない言葉を信じ、一ヶ月食べるのも書くのも左手だけで過ごしたことがある。おかげ?でチームでは両足使える数少ない選手となることが出来た。3年間の集大成となる最後の総体も弱小チームらしく一回戦負け。そのときは負けた悔しさよりも、もうこのメンバーでサッカーをすることがないんだという現実の方が辛かった。その一回戦で負けた夜、当時の同級生メンバー全員でカラオケに行った。そこでは全員で肩を組んで長渕剛の【乾杯】を熱唱し、号泣した。中学の時と同じように部活動を通じて、かけがえのない親友を得た。(このカラオケが見つかって三日間の停学になってしまったのはここだけの話)
	
	



大学生活 忘れられないあの日と、見えない目標。
	
	

高校時代というのは本当に勉強しなかった。今思えば、メチャクチャ勉強して東大出身の屋根葺き職人という肩書きが欲しかったりするのだが、なんとか神戸学院大学経済学科に合格。地元を離れての大学生活が始まった。大学に入学はしたものの、どうなりたいかとかは一切考えたことはなく、ただその日その日を淡々と暮らしていた。いわゆる“ありふれた大学生活”をおくっていた。神戸での生活も徐々に慣れかけてていたとき、あの出来事が起こってしまった。日本中が忘れることが出来ない日、それは















         1995年1月17日、阪神大震災。
	
	

そのとき僕は早朝にもかかわらずなぜか起きていた。当時の様子を語るときいつも僕はこう言う。
	
	
	「地震が起きたとは思わなかった。戦争が始まって、爆撃をくらったのではないか!?」と。
	
	
	揺れがおさまり、公衆電話まで走って実家に連絡。地震直後は電話がつながったため、両親と話すことが出来た。震源地も分からなかったまず、家族のことが心配だったからだ。その後、友人全員の無事を確認。しかし助かった人の中にはつぶれたアパートから何とか脱出出来た人や、仮設住宅生活を余儀なくされた人もいた。地震の影響で大学は3〜4ヶ月の休学が決まり、僕は実家に帰って来た。バイトもしていたが、ただ毎日、何もせずぼんやりと過ごす日々。僕はいろんなことを考えた。大学生活は楽しいものの、何の為に大学に行っているのか、全く価値を見いだせないままでいた。こんな状態のまま大学生活を続けて行くことに疑問を感じ、そして実家の屋根屋の仕事を継ぐことに決心した。
 

家業を継いだときは瓦葺きの仕事はそんなに好きではありませんでした。もちろん一生懸命職人として頑張ってはいましたが、それはただ生活するための手段としてこの仕事をしていました。しかし今は違います。いろいろな人との関わりで瓦の、そして瓦屋根の魅力を再認識することが出来たとき、私の仕事に対する考えは完全に変わりました。今は本当にこの仕事が出来て誇りに感じています。そしてこの素晴らしい仕事をしっかり皆様に感じていただこうとホームページを一新しました。すべてがHP作成ド素人の私の手作りですので見栄えが悪いとこもあろうかと思いますが、これからもよりよいホームページが出来るように日々更新しようと思っています。よろしくお願いします。




好きな歌

  1. 1.  イナズマイレブンの主題歌すべて

  2. 2.  夢をかなえて(ドラえもん)

  3. 3.  やさしい蒼 (絢香)

 子供の影響などもありますが、どれも素晴らしい歌詞です。



つながり:

やっぱり瓦屋根が好きなんです。

藤田隆志ヒストリー

親方との2ショット

編集者独占インタビュー

              

               僕がこの仕事が好きなワケ〜

なぜ実家の跡を継ぎ、屋根葺き職人になろうとおもったのですか?



僕がこの仕事を始めた理由はいたって簡単かつ不純です。就職活動しなくても、簡単に仕事を始めることが出来る道だったからです。きっかけとしては本当にそれだけです。





それで屋根職人になってどうでしたか?



いや、最初始めた時は本当にきつかったです。何がきついって単純に体力的なこと。実際に僕は始めて8kgほど痩せました。それまでぐうたらの生活を送っていて、体がなまっていたというのもあったでしょうが、本当に体力のいる仕事でした。屋根の上のような勾配があるところを歩いたり、その場所で長時間中腰でいたり、瓦を遠くまで運んだりとか・・・。実際、大工さん達には、「屋根屋だけにはなりたくない。」なんて言われることもよくあります(苦笑)

 体力的に慣れてくると、次は技術の習得に力を入れました。理由はもちろん早く一人前になりたかったから。先輩職人の技術は見たり聞いたりして、一つでも早く盗んでやろうと思いました。おかげさまで今では腕にはかなりの自信があります。おかげさまで今年でこの仕事を始めて17年。数多くの仕事をさせていただきました。





仕事は順調だったのですね?



いや、ここで嘘をついてもいけないので、しっかりと本音や苦難を書いておきますね。実は辞めようと思ったことは、あります。それは仕事がきつくて嫌になたとか、人間関係が悪くなったと言う理由ではありません。僕が辞めようと思ったのは・・・・・仕事がなくなってしまった時です。




瓦の仕事が全くなかったのですか?



はい、僕は仕事を始めて、一人前の職人になろうと、一生懸命努力してきました。今では一流の職人になっていると自負しております。しかし僕は職人として以外の仕事は全くしてきませんでした。職人以外の仕事とはつまり、【 営業 】のことです。人付き合いの苦手な僕は、人との交流を出来るだけ避けたかったので、営業は全くしてきませんでした。そのため、当然仕事も減っていき、一ヶ月間、完全に仕事がなくなるという時期がありました。この時には


「もうこの仕事には先がない・・・次の仕事は何にしようか・・・。」


なんてことばかり考えていました。会社の存続のことなど全く考えずに、です。これが4年前のことです。





しかし今はこの仕事を続けています。それはなぜでしょうか?



僕が辞めることばかり考えていた時に、ある方との出会いがありました。その人は僕の思考を180°変えてくれた人でした。その出会いがなければ、今はこの仕事をしていないと断言出来ます。その人とは淡路島の瓦メーカー、大栄窯業の営業をしていて、跡継ぎでもある道上大輔さんでした。彼は僕に “瓦” というものの素晴らしさを伝えてくれました。瓦は歴史があり、人を守ることも出来て、地球にもやさしい天然素材(※瓦をオススメする理由参照)であるということ。瓦の仕事を始めて十数年になっていた時でしたが、瓦のことや会社のことを考えたことは一度もなかったのです。そして彼という人間からは“人に伝える”ということの重要性と必要性を教わりました。ここから僕は、職人としてだけではなく、瓦という素材の価値と、僕という人間の価値を伝えることに力を入れていきました















今の仕事状況はどうでしょうか?



おかげさまで、【つながる笑顔を創ります】をモットーにしております藤安瓦は毎年のように受注が増え続けており、大変充実した日々を送っています。今年に関しては過去最大の仕事量になることが、早くも決定しました。それもすべてはお客様が私たち藤安瓦を選んで下さってのこと。本当に感謝しております。ありがとうございます。










今後の藤安瓦をどうしていきたいですか?



僕は以前、40人の地元経営者の前で50分間、このヒストリーに書いたようなことを報告する機会がありました。そこで僕は聞いてみました。


「僕と出会う前に、藤安瓦という会社を知っていましたか?」 と。














答えはなんと0人!!!  誰も知らなかったのです。それほど藤安瓦というのは認知度が低かったのです。まあ、ある程度は予想していたのですが(苦笑)。そのことを知り、まずは藤安瓦のことを知ってもらう努力を続けていこうと思います。その一つとして藤安瓦キャラクター【瓦ジスタ君】には注目していて下さいね。瓦ジスタ君には香川を代表するキャラクターに育ってもらうつもりです。そして僕たちは彼とともに成長していこうと思っています。期待していてくださいね!











 また、僕にはありがたいことに素晴らしい方との出会いがたくさんあります。中でも西部製麺【ふとんのせいぶ】の石川克幸さんからは本当にたくさんのことを学ばせていただいています。今年から毎月発行している『藤安瓦のかわらばん』と、今回の藤田隆志ヒストリーも師匠(石川さんのことです・笑)の真似です。師匠のように、こうなりたいと思える人が身近にいるのは、僕にとって本当にありがたいです。これからも人のつながりを大事にしていきたいと思っています。













最後に一言お願いします。



藤安瓦には経営理念があります。凄く単純に言うのなら、【人の幸せ=自分の幸せ】ということです。僕たちはこの“瓦屋根”という仕事を通して、人に幸せになってもらいたいです。そのためにも今まで以上の提供力が必要です。だから日々、いろんな知識を身につけようと思っています。


僕たちの仕事は


空間をデザインし、人の暮らしを守ること  です。


このことを常に意識しながら、お客様に満足以上の“感動”を与えることが出来る屋根屋になっていきたいと思います!





藤安瓦 


      経営理念    つながる笑顔を創ります


          心         謙虚と感謝


     私たちの使命   瓦をもっと身近に




藤安瓦・藤田隆志ヒストリーを最後まで読んで下さってありがとうございました。




瓦屋根は任せて!!

毎月奥さんの手書きで

発行しています(^^)